50の手習い

放送大学・大人バレエ・語学学習を中心とした徒然日記

その書店は現存する◎学習記録◎10月第4週

書いていたら、色々思い出しちゃった

アンネの日記

何か英語で読み物をと本棚から取り出したのが、いつだったかの授業で使用した「Anne Frank The diary of a young girl」(アンネの日記)だ。原語はオランダ語、その英語訳だ。日本語では何度か読んでいた。彼女の周辺やその後が知りたくて関係する書籍も読んでいた。その多くが今では手に入らない。

ところで、この本のデザインの元になっているチェック柄の日記帳はアンネの父親オットー・フランクが彼女の13歳の誕生日にプレゼントしたもの。そしてこの日記帳が購入された店は現存する。フランク一家が隠れ家に潜入するその日まで住んでいたアムステルダム南部にある集合住宅からすぐ近くの書店だ。アンネもお父さんも利用していたであろうトラムのヴァール通り(Waalstraat)の停留所を降りるとすぐそこにある。JIMMINKという店だ。たまたま私は知らずに入ったのだが、そこでこのデザインの日記帳に遭遇した。店主によると、これを買い求める観光客がいるとのこと。何より、フランク一家がここで生活していた約90年前と同じ佇まいでそこにこの書店が存在するのという事実に驚く。

 

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本屋を出て、降りたトラムの停留所を背にまっすぐ行くと広場に行きつく。アンネとその家族が住んでいたメルヴェデ広場だ。この周辺の建物は約90年前に建てられた当時の新興住宅群。広場の木々は大きく育ったが、建物の外観はフランク一家が住んでいた頃と変わっていない。また広場にはアンネの銅像がある。

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ここから徒歩約10分のところにアンネが通った第6モンテッソーリスクールがある。親しい友人の一人だったハンネリ・ホースラル(通称リース)とアンネはここで出会った。ハンネリは強制収容所から生還、戦後はイスラエルに渡り2022年にこの世を去った。

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フランス語

  • フランス語2 放送大学放送授業 6課ノート、聴講、提出課題、過去問題

アンネ・フランクつながりでもう一つ。アンネの親友だったジャクリーヌ・ファン・マールセン(日記ではヨーピー)の母親はフランス人ユダヤ系ではなかった。(父親がオランダ系ユダヤ人だったため、ユダヤ人として登録されていた)母親の機転でヨーピーは黄色のダビデの星を外すことができ、強制収容所への移送を免れた。このことをアンネは知らずにヨーピーはほかのユダヤ人たちと共に収容所へ移送されたと思い込んでいた。ヨーピーは現在もオランダに住んでいる。

 

英     語

  • Essential Grammar in Use 107-110
  • English Grammar in Use 49,110,7-10
  • English Vocabulary in Use 26

もう一つ。アンネ達と隠れ家に身を寄せていた歯科医のフリッツ・プフェファー(日記ではデュッセル先生)の息子ピーターは戦況が厳しくなる前に父の計らいでイギリスに避難していた。1994年頃、彼は初めて隠れ家の住人を支援していたミープ・ヒースに会う。その数か月後、ピーターは癌で亡くなった。

 

ロシア語

  • Дорога в Россию 3 урок4 стр. 121
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アンネの父・オットー・フランクはいよいよドイツ軍が劣勢になってきた時、アウシュビッツ強制収容所に病人たちと共に残された。アンネの淡い恋の相手だったペーターはほかの若いユダヤ人たちと共にドイツ軍によって極寒の中、「死の行進」に連れ出され1945年5月アメリカ軍に解放されたその日にマウトハウゼン収容所で亡くなった。ソ連軍がアウシュビッツを開放した時、オットーは生きていた。もしペーターがアウシュビッツに残されていたら、と思う。そしてアンネ達も。アンネとマルゴーの死は同じベルゲン=ベルゼン収容所にいたヤニー・ブランデスによりオットーへ告げられた。

 

フランク一家とファンペルス一家の隠れ家内部

ナレーション内容は1942年7月9日のアンネの日記から隠れ家内部の案内。

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