今週のお題「思い出の先生」
◎充実の国語ライフ◎
幼稚園入園から小学校卒業までは「よい先生」と「悪い先生」交互にに当たった記憶があります。そのなかで人生によい影響を与えてくれた「思い出の先生」のひとり、小学四年生の担任だったM先生(男性)。国語の中でも漢字の楽しさを教えてくれた方でお蔭で4年生を境に「漢字は負けないよ~(*'▽')」になりましたっけ。
4年生に上がってすぐ「漢和辞典を用意してください」と連絡があり、母が私に持たせたのがなんと母が中学生時代に使っていた辞典だった。私は困り果てて先生に相談すると、「これはちょっとアンティークすぎますねえ」と、先生が個別に母宛てに「(三省堂の回し者ではありませんが、)三省堂の小学漢和辞典を買ってあげてください。」と一筆書いてくれたことがあった。感謝しかない(笑;) 私のような生徒もまだほかにいたので新しく買うならこの辞典にしてね、と発信された。そして辞書の引き方から学び、熟語と作文の宿題を毎日こなす充実した国語ライフが始まった。
・・・母がどの分野でもアップデートできないのはこの頃からなのか・・・
あとは授業の合間や給食が終わった後の「M先生おススメ図書の読み聞かせタイム」。先生の選んでくる本がそそられるだけではなく、読み聞かせの上手なこと。特に記憶に残っているのが、19世紀に6点点字を完成させたフランスの盲目少年、ルイ・ブライユの半生を描いた「目が見えなくても」。馬蹄職人の父の工房で失明してしまったルイとその家族の生活のにおいまでこちらまで感じられるような語りは今でも思い出せます。
子供心に驚いたのはフランスでは1784年に王立の盲学校が開校されていたこと。
毎回、本のすべてを読み聞かせず、「ここから先は自分で読んでね(*'▽')」と言って生徒たちを図書館なり書店に走らせるのでした。
◎マイノリティの世界を教えてくれた◎
小学5、6年の2年間はかつて養護学校で教師をしていた女性の先生が担任でした。彼女は時間があるときには必ずといっていいほど、養護学校の子供たちの話をしてくれました。ギャングエイジをちょっと過ぎた年齢ではあったものの、クラスには知的障害のある子や下級生を虐めていたクソガキ連中がいたので、遠慮なく奴らをしばいていたのも清々しい思いだった。先生がしたことは何にも間違っていません(-_-)
「皆が皆同じ人間ではない」ということを常に伝え、だからこそお互いの理解を深め、自分を見つめて生きていかなくてはいけないと常に言っていました。「生活ノート」という先生との交換日記も思い返せば、家庭をもっている先生にしたらとてつもない作業なのに、自分の子供のように見守ってくれたこと、今でも忘れません。隣のクラス担任がモラハラ変態教師だったので、友達からは羨ましがられていました。この話は次回。
この先生も読み聞かせしてくれていました。↓
◎年齢制限ギリギリを救ってくれた先生◎
大人からバレエを始めてわりとすぐに、RAD(ロイヤルアカデミーオブダンス)の試験を受けるようになった。大人が受けられるGrade 6、7に合格した後、「来年からは大人はにグレードは教えないので」と先生から梯子を外され途方に暮れていたところ、友人の友人のそのまた友人が大人の生徒も受け入れてくれる先生を紹介してくださった。
詳しいやりとりは割愛しますが、バレエの世界では今でこそゆるくなったものの、スタジオの移籍はご法度だったのでヒヤヒヤしたけれど、正直にことの顛末を話したところ、レベルチェックの上、快く受け入れてくださった。この先生のスタジオでの扱いはそれまでのスタジオでの扱いとは比べようのないものだった。新参者なのに高校生の代役をさせてもらったり、研究科の皆さんと大きな作品に参加させて頂いたのもいい思い出です。
ここまで書いて気が付いたことが二つ。
三人ともイニシャルがMなんです。三人のM先生が私の世界を広げてくれました。ここには書かなかったけれど、最初のロシア語の先生もM先生でした(*'▽')
間に合えば、「思い出の先生 ブラック編」も書きたいです。
いや、これは間に合わなくても書き残さなければならないのです( ..)φ
きれいごとだけ書くような人間でいたくないです (-_-)


